デカルトの名言に学んだ未成年の主張
おはようございます!
いきなりですが、私は学生のころ、周囲に同化するという事を非常に恐れていました。それは、男の子にありがちな「厨二病」*1といった類のものではなく、純粋に自己が社会や常識に埋没していく感覚が非常に不愉快で不自然なものに感じられ、それはいい知れぬ恐怖と危機感を自分にもたらしたからでした。
学校の先生が校則を押し付けてくることに非常に不条理を感じ、事あるごとに異議を唱えていました。だからといって、金髪やリーゼント(古い?笑)にしたり、盗んだバイクで走りだしたりはしませんでしたが(笑)、「どうしてその格好にしなければならないのか?」「なぜそれは禁止なのか?」そういった問いかけをしていました。
先生からしてみれば、不良よりある種やっかいな生徒だったと思います。
今でも忘れられないのが、国語の授業だったのですが、私の回答が不正解だった問題がありました。何かの試験だったと思いますが、それを授業で解説している時、自分の答えがなぜ不正解なのか、先生に疑問をぶつけました。
いつもなら解説を聞けば、正解に納得するのですが、その時は自分の回答と試験の正解が同列に感じられ、というよりもむしろ自分の回答の方が正当性を感じられ、それを先生に問いただしました。
先生は始めのうちは、論破しようとしていましたが、次第に私の意見に同調していき、結果その回答でも正解で良いという結論に至りました。
あの時、先生は「めんどくさい」という気持ちが強かったのかも知れません。期末試験や入学試験ではないので、「主張も正しいし今回は正解で良しとしよう」という妥協でもあったのかもしれません。
そして意外だったのが、この時自分の回答が正解になったにも関わらず、私は嬉しくなりませんでした。むしろその逆で、悲しさや切なさを覚えたのでした。この事は、とても不思議で「この虚しさはいったい何なのか?」としばらく考え込んでしまいました。いくばくかの年月がその「虚しさ」についての答えを教えてくれましたが、その答えがわかるまで、まだ成長途中の脳みそはオーバーヒートしそうでした(笑)。
大人になって、そういった場面に出くわすと、いまでもこの頃のことを思い出します。当時の私が導いた答えというのは、
「論破しようと自分の主張をぶつけても、満足を得ることは決してない」
ということでした。得られるのは
「僅かな自尊心への餌」
だけだという事です。答えが正解になっても得られたのはその程度の満足だけなのです。なんという不毛な戦いを繰り広げていたのでしょう(笑)。社会に出れば、プロジェクトの成功のため、契約を有利に進めるため、様々な場面で小競り合いが発生します。それは、着地点を有意義にウィンウィンにするため、乗り越えなければならない戦いであったりもします。
しかし、ビジネスを離れてしまえば、そんな小競り合いはない方が賢明です。僅かばかりの自尊心への「餌」のために他人を論破したり、傷つける必要など決してないのです。それを「社会人として」「常識では」などという耳障りのいい言葉で武装し、人格攻撃するなんてもってのほかです。
飲食店の店員さんや、レジのパートさんなどに怒鳴り散らしている中年男性などを見かけるたびに辟易します。よく吠える犬ほど臆病なものです。
大上段からの説法など誰が耳を傾けるのでしょうか?(←私も大上段?)
本当の人格者は下々の目線から、穏やかに諭し言い聞かせる物です。
だいぶ話が横道にそれました(笑)。
話を本題に戻すと、私がこの時学んだことはそれだけではありませんでした。論破するよりも大事なこと、それはデカルトの言葉にもあります。(←本題までが長かったなおい!笑)
今日は、そんなデカルトの名言をご紹介いたします。
疑いは知のはじまりである
まさに、私が学生時代に心がけた言葉です。論破をすることよりも、模範解答を「疑った」ことに価値があったのです。
世間の常識からはみ出すことではありません、校則を破ることでもありません、友人を論破することでもありません、本当に大切なのは「疑う」ということだったのです。
先生を言い伏せても、満足が得られなかった。それは間違った行為だったのかもしれません。しかし、正解を「疑った」ことには価値があったのだと思います。先生は最後にこう言いました。
「よく疑問をぶつけてくれたな」
先生は褒めてくれていたのかもしれません。
社会に出てからは自分を押し殺すことを覚えさせられてきました。自分が言っても変わらない事ばかりです。しかし、それを繰り返すうちに人間はあきらめてしまうのかもしれません。「疑う」ことを忘れてしまうのかもしれません。
安全保障、年金問題、少子化などなど、様々な不条理や閉塞感に満ちている現代、「疑う」心がこれらの日本の問題を解決に導いてくれるのかもしれません。
今日も良い一日でありますように!
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